嫌われプログラミングの代弁者

「何で頭ごなしに嫌う人間が居るのか」を色々考える

懐疑論を持ち出す必要がある 2

考えてみると

考えてみると、

  • 公理が時間の経過と共に
  • 変化してはいけない

と言っているのを見た事が有りません。

 

プログラミングは「自動で実行する」を成立させる為に、頻繁に、

  • 隠れた原因

が現れます。

隠れた原因が現れる度に、

その因果ダイアグラム*1 上限方向が、プログラムに対応する公理に当たり、

それらは、時間の経過(プログラムの出来上がり具合)に伴い、変化する事が常套です。

そういう「公理」も在っていいはずです。

 

分析哲学と大陸哲学

哲学に関するある本*2 を読んでいると、

が有り、後者を支持している論者が言うには、

  • 言葉を正確に使おうと思っている人って、いまひとつ哲学者ではない感じがするんですよ。
  • 言葉が正確に使えたら、それはそれでいいですよ。でも、なかなかそうはいかない。

と言えるのだそうです。

思いますに、1階論理の解像度で、仕様書などの高階論理も記述しようとした人間と、分析哲学の人間は同根かも知れません。

 

ソフトウェアシステムの手順書

ソフトウェアシステムの手順書を欲しがる割に(taker!!)、自分では作ろうとしない人間は、

  • 哲学の素養を基にした、解像度の落とし方

を知らない人間では無いでしょうか?

逆に、その様な素養が有れば、手順書的な見方を自ら出来、そこまでクレクレ人間にならないはずです。

例えるなら、

  • 0000から9999の数字で、3つ、塩梅良く選ぶと上手く行っていたのに
  • それは"非科学的"(=解像度が1階論理より落ちる)だと評して
  • 必ず0000を選ぶ様にし、格段に改悪になる

様な愚行をする様なものです。秩序立った解像度の落とし方はシステム開発(特に上流)に必要で、日本人に不足しているのは、(とっくに充足されているであろう)CS分野なんかでは無く、哲学なのかも知れません。

 

結論

ソフトウェアシステムでは「懐疑論を持ち出す必要がある」為、プログラミングが嫌いになる人は存在し続けることでしょう。

 

*1:束構造の因果ダイアグラムの真ん中辺を、その原因に対する結果である、1つ1つのプログラムとすると、

*2:25年後の東浩紀 『存在論的、郵便的』から『訂正可能性の哲学』へ [電子書籍版]