どの様な話?
なんでこのブログでやっている様な話をずっと(現役の間は)出来なかったのかというと、
- 若手が「藁の混じった議論」をして来ると、古手は必敗になる
- なぜかというと、その議論に乗ると、若手は(藁が混じっている、言ってみれば形而上の議論になるので)より楽が出来、古手は(藁が混じっていない手法なので)より仕事が大変になる
- しかし、商用の企業内でも「若手の真面目な取り組み」を妨げるのは禁忌なので出来ない
と言う羽目になるから、それら「取り組み」に対して非難できなかったからになります。60歳を過ぎて、やれなくなってから初めて、言える様になったと言えます。
真面目な取り組みとは
しかしその様な不毛な(若手もその当時は良くても、藁の手法では中堅以降、食っていけない)取り組みは明らかにまずいと思います。
何か「真面目な取り組み」かどうかの追加の判定が要ると思います。
思いますに、それは、
- 試作
なのでは無いでしょうか?
- 自分の試作無しに「ユ〓ットテスト」が無いのはダメだとか、
- 他人に言うだけとか
は「真面目な取り組み」とは認めない、といった意味です。
また、試作はソフトウェア開発の(問題点の)可視化において、
・(複数の)どの基準
かを早期に調べる助けになると思います。
試作とは
試作とは、私が考えますに、
- これからやるソフトウェア開発で、
- 使いたいフレームワークの機能とか部品とかを、
- 全部のせにして、
- 動く様にする。
- その際には1+2が3だろうと、1000だろうと、10^50だろうと気にしない
と言う物だと思います。
私が「初めにテストを書く」と言うアイディアが嫌いなのは、「その前に試作でしょ」と言う気持ちが有ったからです。
もちろんアカデミアの方では
もちろんアカデミアの方では、嘘も可な訳で、それくらいなら藁が混じっていても全く問題無いとは思いますので、そう言うものが混じった議論はそちらでいくらでもパブリッシュしていただくのが良いと思います。
商用の企業に持ち込まないでくれ!! と言うだけの話です。
信じられない程、素晴らしい性質を持った主張する、関数型プログラミングを吹聴しているリーダーに、
- 実際、それはどうやったら出来るのですか
と聞いたら、
- 何を言っているんだ、それを考えるのはお前たちだろ
と言われた時に、
- それは違う
と言える強さが(昔に)欲しかったです。試作無しの議論を「真面目な取り組み」扱いするのは、アカデミアの方々にお任せすべきです。
結論
これからも「藁の混じった議論」を周りの人にされる事でプログラミングが嫌いになる人は存在し続けることでしょう。