どの様な話?
また、別の哲学の本*1を書いました。
すると、例えば、
- まるで絵画の中の人物のように、あらゆる顔と視線は宙吊りにされてしまうのだ。
とか書いて有りました。本の特定の一部では無く、全般的にこの様な感じです。
脱構築?
これは脱構築の系統の言い方だと思います。そこで調べてみますと、
(脱構築 Wikipedia 日本語版)
と有りました。
総じての現代日本人よりデリダ等の人の方がバカだったなら別ですが、多分そうでは無いと思うので、
階位の高い、形而上の議論をする場合には、この様に、
- 1階の議論に比べて解像度が落ちる
- のは、人類の限界と言って良いのではないか?
と思いました。
それに比べて、
それに比べて、プログラミング分野での「高階関数」は、(私が出会った解説記事などの、実例の範囲ですが)
- 全く解像度が落ちていない(単に無名関数を変数にセットしただけ)
例以外、見た事が有りません。
これで「高階」と言えるなら、このやり方を哲学分野に輸出してやれば、非常に喜ばれるのでは無いかと思いますが、
そうなっていない所を見ると、単におかしいだけなのかも知れません。
理が無く、もしおかしいだけならば
理が無く、もしおかしいだけならば、影響は更に広がります。
- (少なくとも40年前からやっていた)単体の自動テストはともかくも
- (単体を超えた)自動テストが書けるかも知れない、と言う期待は、
- プログラミングの分野で「高階関数」が有る(有り得る)
- と言う事に依存していて、
- それが偽となると、
- (単体を超えた)自動テストなど、単なる詭弁でしか無い
- 可能性も出ると
思います。
何故、解像度を全く落とさずに、「高階」の記述が出来ると、世に吹聴しているのか? 本当に疑問でしか有りません。
結論
これからも「高階関数」のおかしさにより幻惑されたせいでプログラミングが嫌いになる人は存在し続けることでしょう。