なんで「背乗り」だったのか?
>(時効とかも有り)金銭は望めなくとも、
>そういう事を言って、やっている人間の価値を具体的に落とした人の名誉は
>(没後でも構わない)剥奪すべきでは無いでしょうか?
とか書いた後、ふと思ったのです。
- 向こうが馬鹿でも無く、馬鹿のふりをしているのでも無い場合、
- 何で、そこまで初源的で初歩的なネタを”新しい”としたのか?
です。
要するに、
- 新しいものを広めたい
のでは全く無く、
- 自分が言いたい、背乗りをしてでも
だけだったのでは? と言う問題意識からでした。
その頃の(今も?)状況
その頃の状況として、
- 専門学校の方が高度で、大学は理論に基づきと自称していたが劣っていた。
のは紛れもない事実だったと思います。
子供の指を切り落とす先生の話(倶胝竪指)も有る通り、大学ではそれをしないでだらだら勤め上げていても雇い止めになるしかない、逆に指を切り落としてでも、自分が言うのこそが大学の先生の本分だ、とも思います。
それを大学外に持ち出して来たのが実相だった、と言うのが見立てです。*1
それゆえの
それゆえの、
- 論文を、先生を、学会を、示してくれ
と言う言い分です。
そもそも逆なのです。
「学術的根拠が有る」と素人に言う時点で、腹を晒して参ったをしている状態だったはずで、正着で立ち回れば、こちらに有益な方向で決着が付いたはずなのです。
大体
大体、コボラーだって、それなりの「学術的根拠が有る」やり方をしていたはずです。
ただ、やっている当人(私も含む)らは、それを墨守しているだけで、説明してみろと言われても出来なかっただけなのでした。
コボラーが根拠にしている学術的根拠を除外しさえすれば(技報だから学術的文書では無いとか)、自分らの業績が増えるという助平心を出したのかも知れません。
立場の違いかも知れず、解決策は無いのかも知れませんが、ただやられるばかりと言うのも社会人として正しく無いのかも知れません。
結論
これからも「するべきだった事」をしなかった事でプログラミングが嫌いになる人は存在し続けることでしょう。