どのような話?
久しぶりに書きます。
先日、インターネットで、情報処理に関する記事を読んだのですが、その中で、
- 何々を関数と見立てると、
という(様な意味の)一節がはさまれていました。
その後の議論はすごいと思ったのですが、よくよく考えてみると、
- 「関数と見立てる」とは何か、どうやっても接地出来ない
(意味が分からない) - その一節が無くても議論は成立するのでは無いか
(一貫してオブジェクト指向の範囲内の議論でしか無いのでは無いか)
と思う様になりました。
この「関数」というのは
この「関数」というのは、形而上の存在なのでは無いかと思う様になりました。
どうやっても接地出来ないからです。
そして、この議論の方法を日本で昔から有る言い方で言うと、
- 理屈と膏薬はどこへでも付くと言うが、
「関数」と言うのがそれに相当するのでは無いか? - 茶席で避けるべき話題の、「我が仏、隣の宝、婿舅、天下の軍、人の善悪」
の内の「我が仏」を考えると、
「関数」と言うのがそれに相当するのでは無いか?
では無いかとも思う様になりました。
それのどこが不味いのか?
- 手柄の横取りになる
から不味いと思います。その「膏薬」をくっつけさえすれば、
議論の枢要な部分で貢献できた(事にする)事が
可能だからです。
私は公共分野には全く関わったことが無いので、過去の幾つものインターネット上
での記事から読み取った範囲でしか分かりませんが、よく、
- おかしい
と言われます。そしてその(記事で書かれた)おかしさを自分なりに解釈すると、
- 役人が要所要所に「膏薬」をくっつけて、手柄の横取りをしている
と考えると納得がいく物だと思いました。
もちろんそれも正しい場合も有る
ただし、「膏薬」をくっつけて、手柄の横取りをする事も、正しい場合も有るとは
思います。それは、
- 公教育でその分野の形而下の事(この場合、プログラミング)が教えられていない場合、
- 法規や内規や公教育の範囲でしか物を考える事を禁じられている役人が
プログラムを手段としたシステムに関わる場合、 - どうやってもやっても接地出来ない、意味の分からない「膏薬」をくっつけて
関与する事はむしろ責任を果たすための、唯一の手段
だからです。
形而下の事があまねく教えられていない場合、(たまたま)教えられていた人に過剰に富が付き、公共にとって良く無い事になると言うので有るならば、
「信心」によってその不公平さを解消することは正しいのかも知れません。
プログラミングに関しては期限切れでは?
プログラミングに関しては、すでに公教育で教えられています。
もちろん今は、
- 即成的なプログラムを知る為だけの教育
に過ぎないのかも知れませんが、この先、
- プログラムを知るだけでは無く、プログラムを知った上で、逆問題が解ける
様になる(パターンを把握し、仕様出しが出来、システム作成依頼者として
役に立てる様になる)為の教育
だって行われるかも知れません。
プログラミングに関しては、形而上の「膏薬」をくっつけて、手柄の横取りをする
事は次第に、信義にもとる行為になりつつ有ると、私は信じます。
結論
もちろん、その教育を受けていない人もいる以上、形而上の「膏薬」をくっつけて、手柄の横取りをする事はまだまだ正しいとして、横行するでしょうから、
これからも「形而上の存在を挟むことによる、手柄の横取り」をされる事でプログラミングが嫌いになる人は存在し続けることでしょう。