嫌われプログラミングの代弁者

「何で頭ごなしに嫌う人間が居るのか」を色々考える

因果推論による良い寿司成分の欠乏 2

何でこんな話題を思いついたか?

考えてみて下さい。

  • 上流こそが大事
  • 超上流こそが大事
  • 名前をきちんと付ければそれで解る
  • 少なくとも(自分ら)上級の人間は

とか、色々言って、因果推論から何で逃げたいのか?
何で他人に押し付けたいのか?

それは、

  • 因果推論をすると特定の栄養が減り、
  • その結果現れる、身体的精神的不備を、
  • 病気としてみなされ、
  • 昇進等で不都合を生じる

からだと思う様になったからです。

もちろん、日本では「自分は上級だ」などとは、なかなか認められないでしょうから、誰か一人でも、その様な企てをした途端、上から下まで全員が、それを忌避する結果になるでしょう。(間違いなくそうなっています。)

 

私は、

私は昔から見るのが苦手でした。視力は1.5,1.5とか有ったのですが苦手で、見れば解ることも推論でしのがないとならない生活でした*1

ですので、「見ても見えない」プログラミングは割としょうに合っていたと思います。

しかし、50歳を過ぎ、技能は最盛期のままだが、体がついて来なくなった時点で、寿司を食うと治ると言う体験を何度かしました。
(流石に最近は、常時本ちゃんのプロジェクト担当というのは勘弁してもらえています。)

その栄養が例えば微量の水銀だったとしても不思議では有りませんが、効果が出るのは良い寿司限定なので、もっと違う、鮮度が大事な成分かも知れません。

 

因果推論を、

プログラミングにとって、重要な対抗軸と思われる因果推論を阻むものが、単なる栄養素の消尽だけだったとしたら、(ハードウェアの更新を必要としない思弁的に終始する)プログラミング手法だとかは、かなり重要度の順位が下がるかも知れません。

逆にそうでも考えない限り、何でプログラミングを、因果推論を避けたがるのか? 説明が付きません。

 

結論

これからも「因果推論による良い寿司成分の欠乏」でプログラミングが絶望的に嫌いになる人は存在し続けることでしょう。

 

 

 

 

*1:高校まで住んでいた市からほぼ出なかったに、大学に行ってから、もっとも混んでいる時間に(東横店が有った頃の)渋谷で井の頭線から東横線に乗り換えるといった、超荒技に挑んだ結果、
大学で得られたのは、(苦手な「見る」をしないで済む様に)音の人体の吸収により前から来る人を察知する技能だけでした。まるで運輸学部通勤通学学専攻卒の様な気分です。