どの様な話?
私が初めてそれらしい本を手に取ったのは、現象学に関する本でした。
それは、現象学が、
- 大人しい、常識的な
物だとイメージした為でした。
しかし最近読み返して見て、かなり違いました。
完全解読 フッサール『現象学の理念』 竹田青嗣 講談社選書メチエ によると、
- 「主観 ー 客観」図式では無く、「内在 ー 超越」図式を用いる
とし、
現象学ことはじめ 新装改訂版 日常に目覚めること [電子書籍版] 山口一郎 白桃書房 によると、
- 「自我にのみ実在性を認める独我論が克服しうるかどうか」
としています。
しかしながら、ソフトウェア開発の場では、逆に、
- 客観など無く
- 自我(顧客の)のみ実在している
とした方が良い可能性が有ります。
二歳児の隠れんぼ
「客観」など無いという話ですが、ソフトウェア開発の場では、
- 「客観」は二歳児の隠れんぼ
に過ぎない事しか無い様に(私は)思います。
二歳児の隠れんぼとは、前に読んだのですが、
- 二歳児に隠れんぼをしようと言うと、
- ソファーのクッションに顔を押し付けて
- 「隠れた」と言う
と言う話でしたが、
例えば、「制御の反転」なども、
- データを使う側が使われる側(DBアクセス)に依存していたのを、
- インターフェースを介して(これ自体は良い改良だと思いますが)
- 制御の方向を反転出来る様になる。
とし、「客観」性が出来るとする物ですが、
単にクッションに顔を押し付けているだけにしか見えず、使う側が使われる側に依存する事は、何ら隠れていない、
と言う事実と符合すると思います。
客観など無い、としてしまった方が潔いのかも知れません。
独我論の克服
現象学は、
- 内在や自我のみ
で、
- 科学や数学も確固として有る現実の世界を
- まともに表現しよう
とする試みで有り、
ソフトウェア開発にたずさわる人間にとって、より近しいモデルが出来得る可能性を秘めているかも知れません。
客観など、本当にソフトウェア開発では無いのですから、可能性が有っても全く不思議では無いと思います。
面白い試みだとは思います。
結論
これからも「現象学的観点」の不在が原因で、プログラミングが嫌いになる人は存在し続けることでしょう。