社会をより良くしようとする手段
社会をより良くしようとする手段としまして、
- 特定の人間(バスの運転手とかアナウンサーとか)の負担を隠し、
- その分、社会がより良くなった
とするものが有ります。
関数型プログラミングを奉じる人間達(実際には数学のみをコンピュータサイエンスの前提条件とする人間達)も、
社会をより良くしようとする手段は同種のものだったと思います。
数学のみを前提条件とした場合に、「語る事が出来な」くなる負担を隠し、より良い手法だと言い張るのです。
関数型プログラミング自体は
関数型プログラミング自体は、
- 複数の関数定義をまとめ、
- 「型名.関数名」や、「その型の変数名.関数名」で関数を参照出来、
- パブリックやプライベートも宣言出来る様な
型を作る事で、オブジェクト指向相当にも出来るだろう事を考えると、
まさに評価中立で有り、本来なら批判の対象にすべきでは無いのかも知れませんが、
現実問題として、その様にはなっていません。
そして、
- 数学のみを前提条件とするプログラミング手法のみを採用する
論調のみであるのも完全な事実です。
それを踏まえた上で、今後も、あえて、
- 関数型プログラミングを批判する
姿勢は変えないとします。
何らかの範囲の負担を隠す事
何らかの範囲の負担を隠す事は、たとえ宗教的な戒律であっても、科学的信条であっても、それを社会実装してしまうと、後で反発が必ず有ると思います。
数学以外の範囲の哲学の範囲(が担当する負担)を隠す事も、将来に禍根を残す、一因となる事でしょう。
結論
これからも「コンピュータサイエンスの超絶必須前提条件」について、前提条件に合わない範囲の負担が隠される事で、プログラミングが嫌いになる人は存在し続けることでしょう。