嫌われプログラミングの代弁者

「何で頭ごなしに嫌う人間が居るのか」を色々考える

意味がわからない 1

どの様な話?

  • 「プログラミングの意味が判らない」からプログラミングが嫌いだ

について私見を述べます。

私にとっての意味

  • プログラミングの意味は、プログラムの意味とデータの意味に分かれる
  • プログラムの意味は、データの意味を担保する手段のみで
  • データの意味は(プログラムや人間など)それを使う側の総意である

だと思います。この私見通りを納得してもらうなら、嫌いになる程、プログラミングが判らないという事態には陥らないと思います。

この考え方は昔から有り、再現性も有ると思います。

プログラムの意味は?

それに対して、「プログラム自体の意味」が有るという立場では、困難が待ち受けていると思います。

プログラムの意味には必ず、

  • データの意味を担保する手段としての意味が含まれている

筈で、その制約だけでお腹いっぱいになる筈なのに、

  • さらにプログラムの意味まで問う

と、負わなくても良いはずの負債を抱えてしまうからです。

いわゆる「技術的負債」ですが、それは、

  • プログラミングにとって有利な原理原則(※1)を維持し続ける為には、プログラムの意味の一貫性を捨てないといけない筈で、
    単体テストの自動化の破綻は、この為に起こると思います。)
  • それなのにも関わらず、(現在取り組んでいる眼前に有る)プログラムの意味の、プログラミング全体から見た原理原則(※2)(見ている世界の次元が上がっていると思います)まで考えると、
  • 人間業を超えた理解力が必要になる。
  • これは誰にも出来ないのにも関わらず、やらないといけない、となると、負債に見える。

という仕組みだと思います。

何でそう思ってしまうのか?

データの意味の維持など、コスト0だから(分かりやすい、まともな名前を付けさえすれば、万人に対して相互理解が完了する(と思い込んでいる(そんなわけ無い)))
という、誤解からだと思います。

データの意味の維持だけで、人間業として全勢力を傾けないといけない筈なのに、プログラムの意味にまで色気を出すから、ダメなのだと思います。

結論

それでも、プログラムの意味まで希求する人を止めることは出来ません。それは個人個人の好みだからです。ですので、

これからも「意味がわからない」事でプログラミングが嫌いになる人は存在し続けることでしょう。